精魂込めた伯耆の美禄 はじめに杜氏蔵人衆の和ありき

喉ごしよろしい端麗な酒

「此君(しくん)」は、竹葉の露が良酒になったという中国の故事の一説「なんぞ此の君なかるべけんや」から此君を抜粋し、高田屋の屋号「ひわだ屋」の紋である「」を冠して命名されました。その飲み口は、甘くもなく、かといって辛くもなく、淡麗でサラッとした喉ごしの良いお酒です。

伝統を大切に守りながら、綺麗な酒に磨きをかける

時代がいかに様変わりしようと、揺らぐことのない酒造りの精神。基本と原点は、杜氏、蔵人たちの和。「心がひとつになってこそ旨い酒が生まれる」。

倉吉、西仲町あたり、江戸期の風情を今に伝えて

白壁の土蔵群を川面に映して、幅2間ばかりの玉川の流れがあります。今は、その川端を行き交う人影もまばらで、せせらぎと石橋と土蔵とが、静かで穏やかな風景を描くばかりです。

南に見上げる打吹山は、南北朝時代、山名師義が築城して以降、2百年にわたり居城となった城山です。倉吉の町並みはこうして城下町の美しさを整えてゆく事になります。

「倉吉」という地名の初見もその当時であり、「暮らし良し」転じたと言う一説もあるほど、人々がいきいきと暮らせる格好の環境であったようです。

倉吉の商家には土蔵が多く、江戸中期から明治年間にかけて競うように建てられました。

ことに町筋の北側の商家では、玉川に面する敷地の一番奥に、裏門蔵、裏座敷、土蔵、醸造蔵などが軒を連ねています。各戸ごとに設けられた裏木戸口には必ず、玉川をまたいで川端通りへと通り抜けられるよう、石橋が架けられました。ゆるやかな反りを持つ一枚岩で造られたこの石橋が、玉川に生前と架かる様子は趣深く、土蔵群をよりいっそう引き立てます。

重厚な石垣、黒い腰板張り、白い漆喰壁、そして、情緒ある石橋が、盛栄を誇った時代の風情を今に伝える倉吉、西仲町あたり、江戸期の面影を保つ景観の中に、数少ない現存する庄屋のひとつ、天保14年に建てられた醸造元、高田家があります。